2019年1月19日 (土)

「二十五年後の読書」「この地上において私たちを満足させるもの」を読んで


  二十五年後の読書                    乙川 優三郎著 2018年10月発売

  この地上において私たちを満足させるもの    乙川 優三郎著 2018年12月発売

Img_7386_2 昨年(平成30年)12月22日の朝日新聞の書評欄に、作家の諸田玲子の上記2冊についての書評が大きく掲載されていた。


 乙川優三郎は直木賞を受賞した「生きる」を平成15年に読んで以来、ほとんど読んでいる。その中で平成24年に「麗しき果実」、25年に「脊梁山脈」、26年に「トワイライト・シャッフル」、28年に「ロゴスの市」について感想を書いたほど愛読している。

 早速12月28日に図書館に行き、「二十五年後の読書」を借りることが出来た。その後、1月9日に「この地上において私たちを満足させるもの」も、予約して借りられた。

 この2冊は発売日が2か月しか違っておらず。しかも「二十五年後の読書」の主人公である書評家の響子が、谷郷敬という恋人の作家との別離により生きる気力を失ってしまった時に届けられたその作家の最新作が「この地上において私たちを満足させるもの」という題名になっているという体裁である。

 

Img_7390_3  「二十五年後の読書」は、主人公が中川響子という55才の女性で、30年越しの作家と男女の関係にある。しかし作家と書評家と立場は違っていてもお互いに真摯に文学に向き合っている。

 作者は響子の考えとして、書評や評論の中には分析として優れたものもあるが、根本にあるべき文学への愛情を欠いていたり、文学青年ばりに初(うぶ)な指摘もあって、評論家を名乗る前に人間を磨いてほしいと思うことすらある。しかも文章がひどく拙い。短い書評でも文学に負けない美しい日本語で書くべきだと述べている。

 そして最後の頃、届けられた谷郷の新しい作品を読み始めた印象として、作家の筆は嫌なつまらない人間を書きながら不愉快で終わらない文章がある。作家は不屈の意志をもってそのことに挑んでいる気がした。的確な心理描写があり、目に浮かぶ情景描写があり、選び抜かれた言葉による最適な表現がある。

 無意味な会話を大胆に省いて、ひとこと二言で心情を伝える密度が快い。と書いており、否が応でも次の作品である「この地上において私たちを満足させるもの」について期待を持たせている。

 

 

Img_7387_3 「この地上において私たちを満足させるもの」は、高橋光洋という老作家が、若いころフランスからイタリー、スペインと放浪し、ポルトガルからインド、タイを経て、フィリピンに渡った。

 その間多くの強烈な出来事に逢い、やがて日本に帰って作家を志し、名のある文学賞を受賞した。そして編集者だった矢頭早苗と生活を共にすることになった。

 しかし自分が書くべきことは鮮明に見えていたが、書くことは言葉との闘いであり、ほんの一瞬のことをどういう言葉で表現するかによって、まったく別の景色になってしまう。想念の中に見えている世界をふさわしい言葉で表せたとき小説は立ってくる。それこそ万感を呼ぶのである。と考えると、これが高橋光洋の文体と呼べるものに中々ならない。

 そんな時、たまたまテレビで日本人とフィリピン人とのボクシングの試合を見て、そのフィリピン人が、昔マニラの貧民窟で隣の家に住んでボクシングの練習をしていた少年だったことに気付き、自分も苦しくても躓いても書いていこうとする気持ちになった。

 しかし、光洋を励まし続けた早苗が膵臓がんで急逝してしまうと、光洋は酒に入浸りになってしまったが、やがて早苗が最後に仕事で行ったタヒチに赴き、その鮮烈な景観や現地の人の人情に触れ、徐々に気力を取り戻し、早苗の骨をこの海に散骨しようと考えた。

 その後も多くの変遷があったが、その一つとして、マニラで寄宿していたあと日本に引き揚げる時に、その家の娘が医師を志していることを知り、残りの金を全部渡したことがあった。その娘が志望通り医師になり、老年の光洋を案じてソニアという親戚の娘を家政婦として日本に送り込んできた。

 ソニアやがて日本に永住することを決意し、雑用から解放され執筆に専念できるようになった光洋はソニアを養女にしようと思っている。

 海辺の見える家で、光洋は青年時代人間製鉄所で働いたおりの当時の安アパートや小さな飲み屋のことを思い浮かべ。あの当時のことなら良い佳編になるのではないかと心の中で思い浮かべていた。

 

 乙川優三郎の作品は以前から余分な表現や冗長な文章では無く適切で読み易い内容のものが多く、読んでいて気分が良いので愛読しているのだが、今回のこの2冊は作者自身がそう考え実践しているであろうことを作品の中で述べているので、再読した時気を付けて読んだ。

 同じような内容のストーリーを、場所や登場人物を変えて描いているだけの作品を多く出している作家には、耳が痛いのではないかと思った。

 書評をした諸田玲子は最後に、「死や別離や苦悶の先にある希望、それが文学だよ――と、そんな著者の声が聞こえてきたような。それは文学だけに留まらない。人間にとって充足とは何かという重い問いかけが、この2冊にはつまっている。」と書いている。

 (この項終わり)

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2018年12月16日 (日)

2018年埼玉県の紅葉

1.平林寺

 今年(2018)もあと丁度一ケ月しかないという11月30日にクラブツーリズムの日帰りの紅葉見物ツアーに参加することにした。小生は来年1月には86才になるので、最近は遠出を減らして近場の桜や紅葉を楽しむことにしている。

Img_0001 今回はあまり行く機会がなかった埼玉県の新座市、川越市と東松山市の北西方面にある嵐山渓谷を巡るツアーである。

 朝6時過ぎに水戸駅を出発した。赤塚、友部でも乗客を乗せ、約30人のバスツアーである。友部SAスマートICから常磐道に乗り、外環道和光ICから一般道に入る。9時20分頃、最初の目的地である新座市平林寺に到着した。

Img_0002 この寺は以前、岩槻に創建されたが、江戸時代になって松平伊豆守信綱が小姓として三代将軍家光に見出され、その才智によって家光の信頼を得て老中に任ぜられた。更に島原の乱の鎮定により川越城主に転封され、7万5千石の大名になった。

 信綱は三代将軍家光、四代将軍家綱の老中として活躍し、徳川幕府初期政治の基礎を固め、知恵伊豆として古今の名宰相と称せられた。

 信綱はその後、荒野だった所領地の野火止台地に水を引いて開発し、平林寺を現在の場所に移そうとしたが、それを果たす前に亡くなってしまったため、その子輝綱が遺命を守り信綱が亡くなった翌年にこの地に移建したものである。

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 平林寺は臨済宗の禅寺で、総門から山門、仏殿、本堂(非公開)までの伽藍は、禅宗典型の一直線上の配置になっている。

Img_7262Img_7228Img_7222Img_7229Img_7236 総門から入場すると、すぐに色付いた紅葉が迎えてくれる。

 (写真は金鳳山の扁額のある外側から見た総門、内側からの総門と参道、凌霄閣(りょうしょうかく)という扁額のある表側から見た山門2景、内側からの山門と紅葉)

Img_7231Img_7234Img_7235仏殿の先にある本堂、は非公開で入れない 。仏殿の隣にはこれも紅葉に包まれた鐘楼がある。  (写真は仏殿2景、鐘楼)

 

Img_0003Img_7243Img_7253 本堂の奥には信綱の興した大河内松平家の廟所がある。約3,000坪の墓域に一族歴代の墓地170基余りが立ち並んでいるのは他に例を見ないといわれている。

(写真は立ち並んだ墓地。松平信綱夫妻の墓地、島原の乱の供養塔)

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 明治になり、平林僧堂という専門道場が開設され、雲水の修行が始まったが、修行には大自然が不可欠という考え方から平林寺近隣の広大な雑木林を寺域として保有し、平林寺境内林といわれている。

Img_7248Img_7251Img_7250Img_7252Img_7259   昭和43年にこの平林寺境内林は武蔵野の風情を広くとどめる貴重な文化財として国の天然記念物に指定されている。その広さは13万坪(東京ドーム9個分)あると云われ、紅葉の頃は素晴らしい景観になる。(写真は平林寺境内林の見事な紅葉の景観)

Img_7255
Img_7240Img_7242>< Img_7256Img_7260 平林寺境内林 を一周して戻ってくると放生池という小さな池がある。

池には大きな緋鯉が泳いでおり、池端の紅葉が水に映って美しい。池を回っていくと半僧坊感応殿.という衆生の諸願いを叶えるという大権現「半増坊」を祀るお堂があり、そこから山門の前に出る。朝来た時より、だいぶ人が増えてきており、駐車場に戻った時は我々のバス以外のバスは居なかったのだが、4台も新しく駐車していた。(写真は放生池2景、池に居る緋鯉、半僧坊感応殿、人が増えた山門前)

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2.川越

 平林寺を10時25分に出て10時30分に関越道所沢ICに入る。鶴ヶ島JCTから圏央道に入り、11時に川島ICで降り、11時15分に川越市役所駐車場に入る。ここから徒歩で菓子屋横丁にあるうなぎ屋に行き、国産ウナギの昼食である。

  川越市は人口35万人で埼玉県内ではさいたま市、川口市に続く人口第3の都市である。江戸時代からサツマイモの産地として知られ、栗(9里)より(4里)うまい13里と言われた焼き芋は川越芋と呼ばれ、現在でもサツマイモをベースにした菓子が多い。

 川越市は小江戸と呼ばれ、時の鐘、蔵造りの街並み、菓子屋横丁などの観光スポットが多くあり、海外からの観光客も多い。

Img_7265 川越ではサツマイモと並んでうなぎが名物なのだそうである。江戸時代、海から遠いこの地方ではたんぱく源をうなぎで摂っており、また醤油の産地だったので川越の醤油で焼いた土用のうなぎはうまいと江戸時代から評判だったそうであるが、「大穀」といううなぎ屋のうな重は普通の味だった。(写真は大穀のうな重)

Img_7264Img_7266Img_7267Img_7268Img_7270 食後、菓子屋横丁をそぞろ歩き、蔵造りの街並を見る。菓子屋横丁は昭和の香りがする小さい駄菓子屋や、飴家、芋菓子屋などが20軒くらい並んでいる人気スポットで若い女性たちが貸衣装の和服姿で散策したりする様子が眺められる。(写真は菓子屋横丁5景)

Img_7271Img_7272Img_7273 菓子屋横丁から蔵造りの街並みに出る。江戸時代に起きた大火の後に火事に強い土蔵造りの商家が建てられ現在も30数棟が残っているそうで、近くの「時の鐘」と共に重要伝統的建築物群保存地区に選定されている。(写真は蔵造りの街並み3景)

Img_7275Img_7277Img_7279 「時の鐘」を見に行く。蔵造りの街並みから横丁に入ったところにある。約400年前に当時の川越藩主だった酒井忠勝によって創建され、午前6時、正午、午後3時、午後6時の1日4回鳴る鐘の音は「残したい日本の音風景100選」に選定されている。現在の時の鐘は明治26年の川越大火の翌年に再建されたもので、高さ16メートルあるそうだ。(写真は時の鐘3景)

Img_7280Img_7281 時の鐘から少し遠回りをして川越城本丸御殿を見に行った。大きな城が見られるかと思ったが、4万6千坪あったという川越城は明治維新後解体され、現在残っているのは本丸御殿の玄関、大広間などの一部だけであり、期待外れだった。(写真は本丸御殿2景)

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3.嵐山渓谷

 川越を13時20分に出発し,川島ICから関越道の嵐山小川ICで降りる。駐車場のある嵐山渓谷バーべキュー場に14時10分に着く。そこから槻川(つきかわ)という小川に沿った河原の道を行くと、京都嵐山に似た景観から武蔵嵐山とも呼ばれる嵐山(らんざん)渓谷の展望台のある場所に着く。

Img_7282Img_7284Img_7287Img_7289Img_7288Img_7291 途中小川を飛び石で渡る場所があり、展望台に近くになるにつれて、紅葉の林が続く遊歩道になって行く。

Img_7292Img_7293Img_7296Img_7297Img_7286 展望台から川辺に下がると与謝野晶子の歌碑があるそうだが、時間がなく行けずに付近の紅葉の林の中を散策して駐車場に戻った。

 帰りは東松山ICから15時30分に関越道に乗り、圏央道、常磐道を経由し、19時前に水戸駅に戻った。

 今回のツアーでは平林寺の紅葉は期待以上に素晴らしかった。嵐山渓谷はあと30分時間があれば更に良かったと思う。

(この項終わり)

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2018年12月 9日 (日)

「蝶のゆくへ」を読んで

 蝶のゆくへ      葉室 麟 著   2018年8月発売

Img_7300 昨年12月に亡くなった葉室麟の遺作の一つである。この本は端正な文章を書くいつもの時代小説家の葉室麟とは違って、揺れ動く明治から昭和の戦前の芸術家たちの内面をえぐるように赤裸々に記した異色の作品である。

 この本は新宿中村屋の創業者相馬黒光を主人公とする一代記を描いているが、七章に分けられた内容は、その時々に黒光が出会った著名な人物との関わり合いの中に、その人物の生き方、考え方を浮かび上がらせ、黒光自身の生き方、考え方についても自問していく形態で進められて行き、ストーリーに厚みを持たせるとともに、明治になって己の思うように生きて行こうとする新しい時代の新しい女性たちの生きざまが描き出されている。

 明治維新後、旧仙台藩士星喜四郎の三女星りょう(後の相馬黒光)は明治28年(1895)18才の時、仙台の宮城女学校から東京の明治女学校に移ることになった。宮城女学校の学友、斎藤冬子が居たからである。

 第1章は、その斎藤冬子と明治女学校の若い教師、北村透谷との話である。北村透谷は
「恋愛は人生の秘鑰(ひやく=秘められた鍵)なり」と恋愛至上主義を唱えたことで知られる詩人であり、恋愛結婚をした妻が居た。

 しかし冬子と透谷は出会い、やがて恋に落ちてしまった。やがて冬子は肺病にかかり余命も危うくなり仙台に戻った。その頃りょうは仙台に居り見舞いに訪れる。そしてある日、透谷が自宅で自殺した話を聞いた。そしてその1ヶ月後冬子は病院で亡くなった。

 その後入学した明治女学校で校長の巌本善治から、透谷には「蝶のゆくへ」という詩があることを教えられ、「蝶として飛び立つあなた方を見守るのがわたしの役目」と語りかけられた。

 第2章の主人公は、明治女学校英文科の教師、島崎春樹(藤村)23才である。透谷と藤村は同じ小学校の先輩後輩の間柄だった。その関係もあって藤村は透谷の死後、書き散らかされた原稿をまとめて透谷全集を作った。

 その藤村が同じ明治女学校の女子学生の佐藤輔子に心を奪われ、その思いを後に「まだあげ初めし前髪の…」で始まる「初恋」の詩を書いたといわれている。
 藤村は以前輔子と思われる女性の待つ家に行ったのだが、その相手が輔子かどうか判然としないため、りょうに真相を確かめて貰う話である。

 第3章は、従妹の佐々木信子が結婚したばかりの国木田独歩から逃げてきた話である。駆け落ちまでして結婚した二人だったが、考え方の違いから信子の方から別れることにした。しかしその後、多くの紆余曲折があり、独歩は信子をモデルに「鎌倉夫人」を書き、有島武郎は「或る女」を書いてそれぞれ日本文壇に大きな影響をもたらした。

 第4章は、女学生の身投げという新聞記事がりょうのことを書いたように暗示させるので、訂正記事を出させる手段として勝海舟伯爵の助力を仰ぐことになった。当時明治女学校には海舟の三男と結婚して同じ屋敷に住んでいる米国人英語講師クララが居たのである。
                                                                                                              クララの尽力により事件の全貌を知り解決に向かったが。クララが心酔している明治になってからの海舟の日常の言動なども述べられている。

 第5章では、明治女学校が大火に逢い、校舎や寄宿舎が焼けてしまう事件があった。校長の巌本善治の妻松本賤子は結核を病んでいたがこの時氷雨に打たれて病状が悪化し、寝込んでしまった。賤子はバーネット夫人の「小公子」を言文一致体で翻訳したことで知られている作家、翻訳家である。

 りょうが校門の前で賤子を見舞いに来た樋口一葉に逢ったが、当時巌本が発行していた「女学雑誌」に執筆していた三宅花圃が近づいてきて賤子に逢わせずに帰してしまう。そのことから、一葉に関するエピソードが語られていく。

 第6章は、相馬愛蔵との結婚の経緯と信州での生活で健康を害し、上京して中村屋を開業し、成功させる話が簡潔に述べられている。

 その頃りょうは巌本から黒光というペンネームを与えられていた。才気があふれて光がほとばしることをたしなめ、黒い光をこそ、という意味が込められていた。

 その後、りょうの中村屋には荻原碌山、中村彝(つね)、中原悌二郎などの若い美術家が出入りしてサロンを形成し、いつしか新宿中村屋のサロンの女王、相馬黒光という名で知られるようになる。
 
 また同時に、りょうと対照的な女性として夫と子供を捨てて愛人を追ってロシアまで渡ったという瀬沼夏葉という閨秀作家の生きざまを描いている。

 第7章は、荻原碌山(守衛)のことから始まる。守衛は信州穂高生まれで相馬家に集まる若者の一人だった。守衛は絵を学ぼうとりょうの紹介で、明治女学校校長の巌本善治を頼って上京した。その後守衛はフランスに渡り、ロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻家を目指すことにした。

 フランスのアカデミー・ジュリアンで学んだ守衛は校内コンクールで、グランプリを獲得するなどして実力をつけロダンからも教えを受けた。そしてロダンとカミーユ・クローデルとのエピソードを知る。

 やがて28才になった守衛は碌山と号し、帰国し新宿西口にアトリエを構え中村屋のサロンの中心人物になって行った。帰国して2年後に「女」という像を完成させた守衛はその1週間後、中村屋で喀血し亡くなってしまう。

 その後中村屋のサロンには量の長女俊子が加わった。中村彝もその頃サロンに出入りしており俊子をモデルに「少女裸像」という絵を発表した。また同じくサロンに出入りしていたロシヤの盲目の詩人エロシェンコの肖像画を描いている。

 俊子はその後エロシェンコと同じく中村屋に迎えいれ、日本に帰化したインド人革命家のビハリ・ボースと結婚することになる。

 そして最後にりょうと相馬愛蔵の没年を記入して、りょうとかかわりのあった人々のエピソードを通じてりょうの人生を物語っているのである。

20150724142207024_00011 小生は信州安曇野には、安い価格で宿泊できる会員権を保有していて毎年のように訪問していた時期があり、わさび田や道祖神、穂高神社、安曇野ちひろ美術館、安曇野山岳美術館などの多くの美術館などを訪れた。碌山美術館にも4回ほど訪れている。(写真は碌山美術館入口)

また水戸の茨城県近代美術館には水戸出身の中村彝が東京新宿にあったアトリエを復元してあり、彝の絵も何点か保有しているので親近感を持っていた。

20150729121017092_00011Portrait_of_vasilii_yaroshenko_by_t また荻原碌山の「女」も中村彝の「エロシェンコの像」も、共に重要文化財に指定されており、碌山は30才、彝は37才の若さで亡くなっていることもこの本に対する印象を深くしていると思う。

(写真は「女」、「エロシェンコの像」

 第5章にある樋口一葉と三宅花圃の確執は、和歌を教える「萩の舎」を主宰した中島歌子が、幕末に天狗党の水戸藩士と結婚して苦難の道を歩いた話を、朝井まかてが書いた「恋歌」にも記されており、興味深く読めた。

 折角、葉室麟の新境地を開いたと思われるこのような作品を、今後、読めなくなくのは残念極まりないことである。

(この項終わり)

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2018年11月24日 (土)

平成30年 花畑・菜園便り(6)

平成30年の「花畑・菜園便り」6回目です。

 今回は10月から11月にかけての花と野菜の便りです。

【 花畑 】

H5201_2H5202H5203H5204 10月になるとすっかり秋の風情、コスモスも花盛り。後から芽を出したキバナコスモスも咲いている。

 

 

 

H5205H5206H5207H5208 ピンクのクレマチスや花菱草もまた咲き始めた。

 

 

 

H5209H5211H5212H5213H5214 植えっ放しだったアメジストセージも花が咲き始めた。
  前回緑だったコキアも赤く色づいた。

 

 

H5215H5216H5217H5218H5219_2H5220 サルビア、ダリア、百日草はまだ咲いている。

 

 

 しかし、11月の終わり近く霜が降り始めると花は終わり、来春パンジーとチューリップが咲くころまで我が家の花畑は一休みになる。

 

【 菜園 】
 
H5221H5222H5223H5224H5225 前回は苗だったブロッコリー、キャベツ、白菜、大根はそろそろ収穫期を迎えるようになった。

 

 畑にある苗は玉ねぎと苺だけで、遅れてしまったが今日、そらまめの種を蒔くところである。

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(写真をクリックすると大きくなります)

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2018年11月23日 (金)

平成30年秋、水戸歴史館と偕楽園もみじ谷の写真

平成30年の歴史館のイチョウともみじ、偕楽園もみじ谷のもみじを見たが、今年はあまり良く色付かなかった。

 歴史館と偕楽園のイチョウとモミジは今までも何回かアップしているので、今回は内容を写真を主体にした構成にした。

[1.歴史館のイチョウ ]

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       広場の中ほどにある大銀杏は素晴らしく黄葉していた。

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Ko03_2近くで眺める人々

Ko04       大銀杏の絵を描いている女性

Ko05       イチョウ並木は黄葉していないところもあったが

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Ko10      天気は良かったので、見に来る人は多かった

Ko07近くの幼稚園の子供たちも見に来た

Ko09絵を描いている人もたくさん居た
                                                    top↑

[2.歴史館のもみじ ]

 イチョウ並木から坂道を降りると水車小屋と蓮池がある。その付近に山もみじが何本か植えられている。見ごろに逢えれば真っ赤なモミジが見られるのだが、今年は少し早すぎたようだ。
 ここからは偕楽園に通じる園内の道路があり、散策しているうちに常磐線の跨線橋である梅桜橋を渡って偕楽園公園の駐車場に通じている。

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[3.偕楽園もみじ谷の紅葉 ]

 偕楽園公園の駐車場近くに茨城県護国神社があるが、護国神社入口から少し先に「もみじ谷入口」の小さな標識があり、そこを過ぎると「もみじ谷」である。
 谷間にあるので陽がかげるのが早く、午後3時ごろ着いたため、あまり良い写真は撮れなかった。もみじ自体も今年はあまり良い紅葉ではなかった。
 平成30年はライトアップが11月9日から25日まで、日没から21時までの時間行われているが、夜は寒そうで、行こうとは思わなかった。

Ko14      陽が差さないのが残念

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Ko16此処のもみじは真っ赤だった

Ko17赤ばかりでなく黄色のもみじもあるようだ

Ko18人影は少なくのんびり鑑賞できる

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Iko20     池にはコイが泳いでおり、水面は揺らいで、モミジは映し出されなかった

                                                    top↑

(この項終わり)

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2018年10月19日 (金)

3冊目の本を造る

 一昨年(平成28年)に「往時渺茫(びょうぼう)」という本を始めて造ったが、昨年(平成29年)は「幕末の水戸藩」という2冊目の本を造った。

 造り方は一冊目と同じようにWordで原稿を作り、16ページの折丁に印刷し、糸綴じ、化粧裁ちをして表紙を造り本文を張り付けるという本造り全体を自分で作業し完成させる方法である。

Img_7117Img_7112Img_7113Img_7116Img_7114 そして今年(平成30年)は3冊目の本として「おくのほそ道漫遊紀行(1)深川~平泉」という題の本を同じやり方で造った。

 これは以前に松尾芭蕉の「おくのほそ道」をたどる旅をした内容をブログやホームページにアップしたが、それを再編集してその中の江戸深川から奥州平泉までを第1巻として本にしたものである。
   
 「おくのほそ道」はその後、山寺立石寺、出羽三山、象潟(きさかた)、山中温泉、敦賀などを経て大垣まで続くので、出来ればさらに第2巻、第3巻まで書き進もうと思っている。

 小生が「おくのほそ道」をたどる旅を志したのは平成13年で、それから5年掛かって平成18年に結びの地大垣までたどり着いた。その旅行記の内容を平成19年から平成21年までに「奥の細道漫遊紀行」というブログにまとめ、更にホームページに平成21年に「イバイチの奥の細道漫遊紀行」という題名でアップ出来た。

 その後、ホームページの題名を「イバイチの旅のつれづれ」に改め、毎月何件かのあちこちの旅紀行や読書感想などを掲載しており、アクセス回数もブログ・ホームページを合わせると今年中に8万回になりそうである。

 しかし小生も平成30年には85才になり、いつまでも新しい紀行やコラムを書き続けることは出来なくなってきている。ホームページやブログは継続して書き続けずに何ヶ月か過ぎると消滅してしまうことにも気付いた。そのため次世代以降に何か残すとなると印刷物が一番良いではないかと思うようになった。

 思えば最初に造った「往時渺茫」という本は小生の祖父と父の兄弟について記したもので、子供世代や孫世代に先祖の事を少しは身近に感じられるようにと思い、父とその兄弟が取り交わした若き日の書簡や、祖父の事績を子供から見て感じた書類などをメインにしてまとめた本だった。

 翌年の「幕末の水戸藩」は生まれ育った茨城の幕末の出来事を、天狗・書生の事跡をたどって、水戸周辺ばかりでなく筑波、栃木、中山道から敦賀まで、また会津から新潟、更に千葉までの旅をまとめた本だった。

 そして今回は「おくのほそ道」である。身近なことからだんだん広げていった気がするが、すべて自家制作の本なので10部内外しか作れず、結びの地大垣まで無事たどり着けるだろうか。

(写真をクリックすると大きくなります)

(この項終わり)

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2018年10月 4日 (木)

「星夜航行 上・下」を読んで、

 星夜航行 上・下   飯嶋 和一   2018年6月発売 

Img_7033Img_7105  「星夜航行」は上・下巻に分かれ、上巻は533ページ、下巻は572ページあり、合計1,100ページの大作である。

 話は徳川家康の長男、信康の小姓として仕えた主人公の沢瀬甚五郎が、家康によって主君の信康が切腹させられ、自分の身も危うくなって出奔する。
 
 数年の後、剃髪して僧侶姿になっていた甚五郎は縁あって菜屋助左衛門(呂宋=ルソン助左衛門)と知り合い、船に乗って琉球、台湾、マニラなどに向かう海の商人となって、薩摩の山川に住み、国際感覚を身に着けていく。

 その間、日本では織田信長が斃れ、秀吉が天下を統一する。秀吉は明国征服の野望を持ち、朝鮮に攻め入った。朝鮮軍には鉄砲が無く、長年の平和に慣れて連戦連敗し、朝鮮国王は首都を漢城(ソウル)から平壌に移し、更に明との国境の義州まで落ち延び、明国に援軍を要請した。

 一方朝鮮水軍の李舜臣の活躍によって秀吉水軍は制海権を失い、また各地で朝鮮の義勇軍が蜂起し、秀吉軍は兵糧や弾薬が欠乏して苦しい戦いになってきた。

 その間、沢瀬甚五郎は山川港を薩摩藩が支配することになったことなどから博多に商売の拠点を移していたところで上巻は終わる。

 下巻では秀吉の命令で博多商人の代表として沢瀬甚五郎が平壌の小西行長に武器と食料を運ぶことになった。しかし釜山沖で僚船が朝鮮水軍によって沈められため、物資は届けられず対馬に逃れ、更にマニラに向かった。フィリピンはイスパニア(スペイン)が植民地としており、日本との貿易とキリスト教の布教を進めようとしているが、ポルトガルのイエスズ会との確執があるなど日本周辺の情勢は混沌とした情勢だった。

 朝鮮の秀吉軍は引き続き兵糧と弾薬の欠乏が続き、明国軍と朝鮮王国軍の攻勢により、平壌から漢城に撤退し、さらに釜山付近の順天城で小西行長、蔚山城で加藤清正などが支配するまで押し込まれていた。

 やがてマニラから長崎経由で博多に戻った沢瀬甚五郎は恩顧のある博多商人の嶋井宗室と共に釜山に食料を運ぶことになり、更に近くの亀浦城までその一部を運ぶことを依頼され、沢瀬甚五郎が運び入れることになった。しかしその途中降倭と呼ばれる朝鮮王国軍に寝返った日本の将兵に襲撃され捕虜になってしまう。.

 やがて秀吉は死去し、朝鮮出兵の日本軍は明国軍と講和を結び帰国することになった。しかし、朝鮮に留まっている秀吉軍は6万5千人居るが、海戦で多くの船が沈められ、日本に帰れるのは1万5千人と推定され、足軽や役夫などの5万人は置き去りにされ、明国軍に殺されるに違いなかった。

 その頃沢瀬甚五郎は朝鮮王国軍の降倭軍鉄砲隊の指揮を執るようになっており、小西行長が守る釜山近くの順天城を取り囲む朝鮮国軍に属していた。順天城には1万3千人ほどの城兵が居たが、船が少なく約5千人は帰国できずに取り残される様子が分かり、朝鮮王国軍の将軍に交渉して投降するよう呼びかけ、それに応じた1,500人ほどの命を救い荒廃した朝鮮国土の再生に尽力することになった。

それから8年後、断絶していた日朝両国の国交を回復するために朝鮮使節団が訪れ、その中に沢瀬甚五郎らしい高官が居たという終章で終わる。

 

 文中繰り返し述べられるのは、秀吉という独裁者の明国征服という野望のために日本ばかりでなく、朝鮮国、明国の農民、漁民などを含めた多数の一般民衆が戦いに駆り出されて、その多くが犠牲になり、それぞれの国土が荒れ果て、疲弊していった戦争の悲惨さである。

 薩摩の島津家に例をとれば、この遠征で1万5千人の軍役を課せられたが、その内武士は2千人で残り1万2千人は足軽と人夫であり島津家を支える農漁民だった。残った農民が戦地に赴いた者の農地を耕すことを命じられたが、しょせん無理な話で、農民の逃亡が相次ぎ、農地は荒廃するにまかされた。漁民も朝鮮で大半が犠牲になり島津領国は壊滅的な打撃を蒙っていた。

 この戦いは文禄・慶長の役といわれ、文禄元年(1592)から途中休戦を挟んで慶長3年(1598)まで7年間行われ、秀吉の死による日本軍の撤退で終結した。

この小説は「小説新潮」に5年間連載され、その後著者校正を4年間行い、刊行までに9年の歳月がかかったという力作である。

作者、飯嶋和一は前々回刊行した2008年「出星前夜」で大佛次郎賞、前回刊行した2015年「狗賓童子」で司馬遼太郎賞を受賞している。

 この2冊を含めて「神無き月十番目の夜」(1997年)、「黄金旋風」(2004年)も愛読した。この作家は今回の「星夜航行 上・下巻」を含めて9冊しか刊行していないが、読み応えのある作品が多い。

(この項終わり)

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2018年9月26日 (水)

平成30年 花畑・菜園便り(5)

平成30年の「花畑・菜園便り」5回目です。

 今回は8月後半から9月にかけての花と野菜の便りです。

【 花畑 】

 8月前半は酷暑が続き、雨も降らず花は枯死寸前になるほど弱っていたが。後半は台風などの雨が降り、気温が落ち着いてきたため、息を吹き返した。

Img_6971Img_6973Img_6980Img_6982Img_6995 コキアの緑の玉はだいぶ大きくなった。千日紅の株も持ち直した。

 

Img_6983Img_7039Img_6986Img_6994Img_7090 ペチュニアもサルビアも生き返り、鶏頭も元気に育っている。

 

 

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 種まきダリアも種類が増え、株も大きくなった。

 

Img_6991Img_6992Img_7052Img_7051Img_7099 暑さが和らぎ、朝顔が咲きだした。また、柿の実も色付いてきたが、今年は小粒である。ムクゲの花も涼しくなって再び咲きだした。

 

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Img_7048Img_7092Img_7098Img_7084 コスモスも咲きだした。キバナコスモスも咲いている。我が家の花畑は秋の花で満開である。

 

 

【 菜園 】

Img_6987今年の枝豆はたくさん実をつけてお盆前まで毎晩ビールのつまみになった。

ビニールハウス内のトマト、茄子、キュウリ、ピーマン、ミニトマトなどはあまりの暑さで8月いっぱいでほとんど収穫は終わってしまった。9月は毎日収穫出来ず、週に1回~2回になってしまったが、それも完了した。

Img_7093Img_7096Img_7097Img_7095 9月半ば過ぎには冬用の白菜、キャベツ、ブロッコリーを虫よけのネットを掛けて育てはじめ、大根の種を蒔いた。

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(以下次号)

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2018年9月24日 (月)

偕楽園の萩

 茨城県水戸市では偕楽園の「水戸の梅まつり」が良く知られている。約100品種3,000本の梅が2月中旬から3月下旬に掛けて1か月半にわたって早咲きから中咲き、遅咲きの梅が楽しめ、梅まつり期間だけ近くの常磐線偕楽園駅が開かれ、京浜方面からの観客が乗降できるほどである。最近は昼間だけでは無く夜のライトアップも行われている。

 しかし偕楽園は梅の名所だけではなく、4月には「桜まつり」、5月には「つつじまつり」、9月には「萩まつり」、11月にはもみじ谷の「もみじまつり」があり、「萩まつり」、「もみじまつり」もライトアップが行われている。

 また隣接する茨城県歴史館では8月に蓮池で大賀ハスが咲き、11月には「イチョウまつり」でイチョウ並木のライトアップが行はれるなど、この地域は四季を通じて楽しめる場所である。 今回はその中で萩まつりの期間に、偕楽園を訪れた時の記録である。

 今年の萩は、夏の暑さのせいで例年より開花が遅れているというので、「萩まつり」の終わり近くの9月22日に見に行った。偕楽園・桜山第2駐車場に車を止めて、梅桜橋から偕楽園本園に入る。

Img_7053Img_7055Img_7054  南門から見晴らし広場に通じる坂道を登っていくと子規の「崖急に 梅ことごとく 斜めなり」の句碑があるが、その前にひがんばな(曼殊沙華)の真紅の花が咲いている。そういえばその日は秋の彼岸の中日(秋分の日)の前日だった。

 ひがんばなは、近くにある徳川斉昭が水戸八景の一つに選んだ僊湖(千波湖)の暮雪碑の近くにもたくさん咲いていた。


Img_7058Img_7060Img_7061Img_7056Img_7072 見晴らし広場に上がると、梅や桜の季節は姿を見せなかったたくさんの萩が、大きく育ち、紫や白い花を咲かせて出迎えてくれた。偕楽園の萩は宮城野萩が中心で白萩,山萩、丸葉萩など750株あるのだそうである。

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  訪れた日はあいにくの曇天で、普通でも地味な小さな萩の花は萩の緑の葉や芝生の緑に覆われる感じで、近くまで行かなければよく見ることが出来ないが、ちょうど見ごろでたくさんの花をつけていた。

Img_7073Img_7069Img_7074Img_7077Img_7078 見晴らし広場や仙波湖を一望に出来る三階建ての好文亭や大きな左近の桜の点景としての萩も風情がある。

Img_7080Img_7081 偕楽園の前庭付近にはサルスベリの赤い花が眼を惹く。南門から好文亭に行く道筋に櫟(くぬぎ)門があるが、その屋根には草がたくさん生えていた。

   

Img_7082Img_7083 偕楽園本園から常磐線の線路を越えると拡張された広い偕楽園公園になっているが、そこにも萩が咲いており、本園の赤いひがんばなが眼を引く。広い偕楽園公園の四季の原には間もなくコスモスなどの秋の草花が咲き乱れるようになる。

   

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(この項終わり))

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2018年8月23日 (木)

「隠蔽捜査7---棲月(せいげつ)」を読んで

 棲月(隠蔽捜査7)    今野 敏著   2018年1月発売

 今野敏の作品を読み始めたのは平成19年1月に「隠蔽捜査」(平成17年発売)が初めてだった。その後今回の作品「棲月」まで60冊以上の今野敏の作品を愛読している。

 今野敏の作品は警察小説のジャンルが多いが、その中でも「隠蔽捜査」シリーズはメインになるもので、初回の「隠蔽捜査」で吉川英治文学新人賞を受賞し、第2回の「果断・隠蔽捜査2」で山本周五郎賞と日本推理作家協会賞を受賞している。

このシリーズは

 「隠蔽捜査」    平成17年(2005)発売、

 「果断 隠蔽捜査2」 平成19年(2007) 〃

 「疑心 隠蔽捜査3」 平成21年 (2009)  〃

 「初陣 隠蔽捜査3.5」平成22年 (2010) 〃

  「転迷 隠蔽捜査4」  平成23年(2011) 〃

 「宰領 隠蔽捜査5」 平成25年(2013) 〃

 「自覚 隠蔽捜査5.5」平成26年(2014)  〃

  「去就 隠蔽捜査6」 平成28年(2016) 〃

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「棲月 隠蔽捜査7」 平成30年(2018) 〃

 

 

 と続いており、今回で9冊目である。

 このシリーズの主役は普通の警察小説の刑事では無く、警察庁のキャリア官僚の竜崎伸也警視長である。竜崎は私利私欲とは無縁で、国家公務員としてあるべき姿や、原理原則に忠実であるため変人といわれている。

 竜崎はある事件によって警察庁長官官房総務課長から大森署の署長に左遷されたが、それにめげることなく活躍する内容がこのシリーズのメインで、最初は戸惑った部下の署員たちからも厚い信頼を寄せられるようになる。

 しかし次回から神奈川県警刑事部長に抜擢されることになった。

 作者は、このシリーズを今後も続けると表明しているので、次作からは竜崎の神奈川県警での活躍が見られることになる。

 今野敏の作品紹介は2016年に「平成27年後半印象に残った本」として紹介した中に「自覚  隠蔽捜査5.5」を載せてある。また2017年に「継続捜査ゼミ、回帰、を読んで」という隠蔽捜査シリーズ以外の今野敏の作品を紹介しており、今回で3度目である。

 今回の「棲月 隠蔽捜査7」は、鉄道、銀行、文部省のシステムがダウンし、出勤や銀行業務などに障害が発生するという3件のサイバー犯罪が行われ、それと同時に殺人事件が発生するが、そのすべてがコンピューターを駆使するハッカーによる犯罪であるようなので、従来の犯罪捜査の手法だけでは捜査がうまくいかず、新設されたサイバー犯罪対策課などとも協力しあって解決に導くという新しい捜査方法が描かれており、その間に神奈川県警への異動の内示があり、大森警察署から離れることに未練を感じつつ去っていくという内容である。

(この項終わり)

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